脱いじめの社会学

Sociological Insight: some episodes for escape from bullying

episode 1. いじめとは人格否定教育である

いじめとは一体なんだろうか?
 
いじめは嫌なものだ、しかし嫌なことをされることがいじめではない。
 
小学生だったころのことを思い出してみて欲しい(今小学生の人は今の自分について考えてみて欲しい)。
 
ある日、とても仲の良い、親友とも呼べるような友だちと喧嘩をして、「お前なんか生きてる意味ねーんだよ、バーカ!バーカ!」と言われたとしても、とても嫌な気持ちになったり、泣いちゃったりするくらい悔しい気持ちになったりするかも知れないけれど、だからといってそれでいじめられたと思う人は少ないだろう。
 
しかし、ある日、特に仲が良い訳でもない、複数のクラスメイトから「お前なんか生きてる意味ねーんだよ、バーカ!」と言われたらどうだろう。その日だけならまだしも、次の日も、その次の日もそう言われ続けたとしたらどうだろう。
 
ほとんどの人がいじめられていると思うのではないだろうか。
 
何が違うのだろうか、浴びせられる罵声は同じだ。でも生起する感情は違う。
 
両者の違いは、そう言われる側が、本気でそう思うかどうかではないだろうか。
 
前者の場合は、「お前なんか生きてる意味ねーんだよ」というのは言わば喧嘩用のスラングであり、そう言われて嫌な気持ちになったとしても、それは、どうしてそんな酷いこと言うんだよ!とか、悪いのは俺じゃ無いだろ!とか、もう仲良くできないのかな、という感情であって、自分が生きている意味がないことが判明したからショックを受ける訳ではないだろう。
 
しかし、後者の場合は、どうだろう。特に仲が良い訳でもないにも関わらず、多くの人が「お前なんか生きてる意味ねーんだよ」と思うのだとしたら、自分が生きている意味がないというのはそのくらいに明白なことかも知れなくて、もしかしたら自分は本当に生きている意味がないのではないだろうか?という気持ちが芽生えるのではないだろうか。
 
そして、この気持ちが枯らされることなく、継続的に育てられていく過程、いじめの被害者が自発的に自分の人格を否定できるように教育されていく過程、これこそがいじめの本質ではないだろうか、と思っている。
 
つまり、いじめとは人格否定教育である。
 
これは言葉によるいじめに限らず、暴力による場合だろうと、連絡を回さない、陰口を叩かれる、LINEのグループを教えてもらえない等の嫌がらせの場合であろうと、結果としていじめの被害者が自発的に自分の人格を否定できるように育っていれば、それはいじめである。
 
そして、いじめの被害者が自発的に自分の人格を否定できるように教育されていく過程、がいじめの本質なのであって、いじめの加害者が悪意を持っているかどうか、というのは実はいじめの本質ではないと思っている。
 
例えば、極端なことを言えば、いじめの加害者が悪意を持って、いじめの被害者に嫌がらせをしたとしても、被害者側が意に介さなかったとしたら、それはいじめではない、少なくとも問題になるいじめではないだろう。逆に、いじめの加害者が、いじめの被害者のために良かれとおもって善意で行っていたことであったとしても、その結果、いじめの被害者が自発的に自分の人格を否定できるように育ってしまえば、それはいじめであろう。
 
 
従って、このいじめという問題を解決するためには、加害者側においては、他者にそういった感情を生起させないためにはどうしたらいいのか、ということを学ぶ必要があるし、被害者側においては人格否定教育を施されないためにはどうしたらいいのか、ということを学ぶ必要があると思っている。
 
加害者側、被害者側と言っているが、実際に被害を与えた人、実際に被害を受けた人、という意味ではなく、実際の加害者も、実際の加害者も、そのどちらになったこともない人も含め、とにかく全ての人である、あらゆる人があらゆる場面でいじめの加害者にも被害者にもなり得る訳であるから、この問題を解決するためには全ての人がその両側面を学ぶ必要があると思っている。
 
これが自らがいじめられた経験に基づいた、いじめの本質の仮説である。
 
いつの日か、この世界からいじめという現象がなくなることを切に願っている。